「だってだってのおばあさん」歳をとるってどうゆうこと?

人生観が変わる絵本

「だってわたしはおばあちゃんだもの」

人はだれしも歳をとる。その中でどう生きていくか、歳相応な考え方になっていってあれは出来ない,これも出来ないってなっていくんだろうな。

そうおもっていたけど、どうやらちょっと違うみたい。

絵本「だってだってのおばあさん さく・え 佐野洋子」から、歳をとるってどうゆうこと?ということを考えてみたくなった。

こんにちは、mofuです。今回も佐野洋子さんの作品です。単純なお話だけれども、いい意味で違和感がある。気づきがある。そんな作品をたくさん描いていて、わたしが絵本にはまるきっかけになったひと。どんな物語でも読む人が多ければ多いほどいろいろな解釈がある。それはそれでわたしはわたし。作者の意図なんてだれもわからないけれど想像するのは自由だし、わからないからこそ、ひとつの絵本に対してたくさんの考えが生まれる。それはとても素敵なことなんじゃないかなと思います。

絵本が少しでも気になった人はぜひ買ってよんでみてください。そして考えてみてください。

ものがたりの違和感

物語は、ちいさなうちがあってまわりにちいさな畑があって野菜がうえてあって、玄関のそばにはつりざおと長靴があって、反対側のまどのしたにいすがひとつありました、というところから始まる。どんな人が住んでいるのだろうと想像を刺激する。題名からしておばあさんが住んでいるというのは想像できる。畑で野菜をつんでいすで休憩しながらゆったりとした老後の一人暮らしなのだろうと予想はつくが、つりざおと長靴の違和感。おばあさんって釣りにいけるの?そのあとに98のおばあさんと元気な男の子のねこが住んでいるという説明がある。ここまできて、あ、つりざおと長靴はねこのものかと考える。でもなんでいすはひとつなの?ここでも違和感。

この違和感はたぶん普通なのだと思う。でもこの違和感がのちのち、無意識に私たちの中にある「おばあさんというのはこういうものだ」という決めつけからくるものだと考えさせられる。

年寄りはこうだ、若者はこうだ、というのが経験やイメージとしてあたまのどこかにある。とくに歳をとればとるほど「こうだ」という決めつけが多くなる。良くも悪くもこれはたぶん経験に自信を持ちすぎている。柔軟に考えることができなくなっているんだろうな。

この違和感が普通だと思うといったのもそれで、歳をとると自分の経験が一番正しい、ひとの話はほとんど聞いていない状態であったり、社会がいう一般常識にとらわれすぎている。「おんなのこはおしとやかに」とか「おとこのこはないてはいけない」とか昔いわれてきたことをその通りだと思い込んで、教育的にもそう教えられてきたというところもあるだろう。

物語を読めばこの違和感を感じていた自分の、凝り固まった発想にハッとさせられる。

最初にこの違和感を少ない文章で認識させるところはやはりすごいとしか言いようがない。

98のおばあさんって?

ねこはまいにちぼうしをかぶって、長靴をはいてつりざおをもって魚つりにいきます。ねこはまいにち

「おばあちゃんもさかなつりにおいでよ」と誘います。

おばあさんは、

「だってわたしは98だもの、98のおばあさんがさかなつりしたら似合わないわ」

とことわります。

おばあさんは、「出来る出来ない」「したいしたくない」ではなく、98歳だからという理由で断ります。

でもどうなんだろう。畑で野菜をつんでいたりするので体力的には出来るにはいるのだろうか。年齢に似合っていたらさかなつりしたいの?といろいろ聞いてみたくなる。自分の中で98歳のおばあさんはこう過ごすもの!というのがあるのだろうな。

そしておばあさんは、まどの下のいすにすわって畑でとれた豆のかわをむいたり、おひるねをしたりしました。

「だってわたしは98だもの」

ねこはまいにちたくさんさかなをつって帰りました。おばあさんは、そんなねこに対して、およいでとるのか、どこのかわでとるのかと質問をします。ねこは「おばあさんもいっしょにくればぼくがさかなをとるところみられるのに」といいます。

おばあさんとねこの対比が現れている。おばあさんはさかなつりに興味を持っていることがわかります。でも98歳だからと、私たちでもそう思っている一般的な「おばあさん像」でい続けます。おばあさんの中で、おばあさんとはこういうものというのが出来上がってしまっている。その一方、ねこはおばあさんの歳のことはなにも考えていない。ねこの中にはまだ「おばあさんとはこういうもの」という考えがない。

いつからだろう。「おばあさんはこうでなければならない」と勝手におばあさん像を作り上げるようになってしまったのは。むかしはわたしたちも「こうでなければならない」なんて考えたこともなかったのにいつの間にか柔軟性が失われていっているようにおもえる。最低限、人とかかわるうえや法律を守るうえでは「こうでなければならない」は必要だけれども、あれもこれも「こうでなければならない」に押さえつけられてそれが普通と思い込んでいる状態がわたしたちの可能性をせばめていないか。運よく気づけても、そこから踏み出すことは勇気がいるかもしれない。普通から外れるのはほんの少し怖さがある。なにかきっかけが必要だ。

歳をとるってどうゆうこと?

おばあさんの99歳の誕生日がきました。おばあさんはあさからケーキをつくりました。

「おばあちゃんケーキをつくるのじょうずだね」

「だってわたしはおばあちゃんだもの、おばあちゃんはケーキをつくるのがじょうずなものよ」

やっぱり、おばあさんはこうあるものというのが、おばあさんの中にしっかりとある。

おばあさんはねこにろうそくを99本かってきてと頼みます。

「ろうそくをかぞえなくっちゃほんとうのおたんじょうびじゃないもの」

ねこはおおいそぎでろうそくをかいにいきました。おばあさんはテーブルのうえにあたんじょうびのテーブルかけをかけてないふとフォークをだしました。

99本もローソクをさせるケーキってよっぽど大きいのだろうか。という疑問はおいといて、ろうそくを数えないとほんとうの誕生日じゃないとはどういうことなのか。じぶんは99歳なのだと自覚したいということなのか。99歳と自覚したらまた行動に制限をかけていくのだろうか。野菜を育てるのをやめてしまうとか、歳相応の生き方というものをしていくのだろうな。誕生日は何かを始めるきっかけの日と考えられるのは若いうちだけなのだろうか。疑問がふつふつとあがってくるが、この物語はそんな疑問を、解決こそはしないが、きれいに吹き飛ばしてくれる出来事が起こる。

「そのときねこがおおきなこえでなきながらかえってきました」

「ねこはひだりてにやぶれたふくろと、みぎてにろうそくを5ほんもっていました。」

あまりにいそいだのでかわのなかにろうそくをおとしてきちゃったのです。

おばあさんはがっかりしました。

「5本だってないよりましさ。さあろうそくをじょうずにケーキにたてておくれ。5本だってないよりましさ」

めっちゃローソクの本数にこだわるやん。と思ったけど、おばあさんにとってローソクの数は大事なことで、99年いきてきた証をしっかりとこの目で確かめて実感したいということなのだろうか。生きていく楽しみが毎年のケーキにたてるろうそくの数だったのかもしれない。そのほかの変化をあまり求めていないのかな。

誕生日って歳をとるだけじゃないのかも

おばあさんはローソクにひをつけました。「おばあちゃん、かぞえて」とねこがいいました。

「1つ 2つ 3つ 4つ 5つ。ろうそくを数えると、ほんとうにおたんじょうびのきぶんになるわ」

おばあさんはもう一回数えます。

「1さい 2さい 3さい 4さい 5さい。5さいのおたんじょうびおめでとう」

ねこは「おばあちゃんほんとに5さい?」とたずねます。おばあさんは

「そうよ、だってちゃんとろうそくが5ほんあるもの。ことしわたし5さいになったのよ」

おばあさんは5さいになりました。ろうそくの数だけで5さいに。99さいのお誕生日の準備をしていて、ねこが5ほんしかローソクをもって帰ってこれなかっただけで5さいになってしまう。そんな単純なことでいいのかもしれない。きっかけって。ここからおばあさんの行動が変わっていく。

つぎのあさねこはさかなつりにでかけようとします。いつものように「おばあちゃんもおいでよ」と。おばあさんはいいます。

「だってわたしは5さいだもの・・・・・・、あらそうね!5さいだから、さかなつりにいくわ

いままでは「だってわたしは98だもの」といっておばあさんはこうあるべきものと考えてその通りに行動していたが、99さいではなく5さいになった今、その年齢にあった行動をしようとする。おばあさんは考えそのものを変えていったのではなく、ケーキのろうそくがたったの5ほんだっただけという事実から5さいに似合った行動をしようとする。おもしろい発想。考えを変えれないのなら状況を変えればいい。誕生日ってやっぱり何かをはじめるきっかけなのかもしれない。それが無意識であっても。

5さいってどんな感覚だった?

おばあさんはぼうしをかぶって、長靴をはいて元気よくねこといっしょにでかけました。おばあさんはもうながいことこんな遠くまできたことがありませんでした。おばあさんはおはなのにおいをかぎながら

「5さいってなんだかちょうちょみたい」

ずいぶん歩いてかわまできました。ねこはぴょんとかわをとびこえました。「おばちゃんもおいでよ」おばあさんは

「だってわたしは5さいだもの。あらそうね!5さいだからわたしもとぶわ」

5さいのおばあさんは94年ぶりにかわをとびこしました。

「5さいってなんだかとりみたい」

向こうぎしにつきました。ねこはかわにとびこみました。「おばあちゃんもおいでよ」とさそいました。

「だってわたしは5さいだもの。あらそうね!わたしもはいるわ」

おばあさんもながぐつをぬいでかわにはいりました。まえかけのなかにさかなが1ぴきはいっていました。「あらわたしってなんてさかなつりがじょうずなんだろう。

5さいってなんだかさかなみたい」

おばあさんがたちあがるとまえかけのひもから1ぴきずつさかながぶらさがってきました。

「あら あら あら あら!わたしなんてさかなつりがじょうずなんだろう」

「5さいってなんだかねこみたい」

おばあさんはいままでとは別人になったかのような行動をとります。そしてそのことが新鮮で「5さいってなんだか…」が続きます。5さいは98歳のあばあさんよりも経験がほとんどないので比較も単純。ことばも単純な言葉をつかっている。「ちょうちょみたい、とりみたい、さかなみたい、ねこみたい」でもこの感覚って歳をとるごとになくなっているかも。難しいことばをつかってみたり、もっと具体的にひょうげんしてみたり。人との関係が増えていって、伝えることが中心になるあまり、気持ちは単純なものなのに、装飾しようとする。たしかに社会では歳相応のことば遣いをするのが一般的かもしれないが、感覚的なうまく表せない想いもあるでしょう?それをつたえようとして、うまく伝わらなくて、伝えることから逃げるくらいなら、5さいみたいな簡単なことばをつかってばかにされるほうがましかもしれない。たまには散歩でもしておはなのにおいをかいでみる。そんなじぶんをちょうちょみたいと表現でできるじぶんでいたいな。

5さいになったおばあさんなんだか幸せそう

「ねえ、わたしどうしてまえから5さいにならなかったのかしら。らいねんのおたんじょうびにもろうそく5ほんかってきておくれ」

なんだかしあわせそうなおばあさん。「だってだって」といっていていたのが、たった5ほんのろうそくでこんなにもしあわせになれるのか。「だって」ということばが、5さいをまとうことによって前向きな言葉に変わっていっている。もしあのまま99本のろうそくでおたんじょうびをしていたらきっともっとじぶんに制限をかけてしまっていただろうし、さかなつりのたのしさ、ちょうちょのきもち、ねこのきもちになれなかったのだろうな。5さいがいい、98歳がだめというのではなくたったささいなきっかけだけで考え方は変わらなくても、行動や感じ方ってかわるのだな。

さいごはねこのひとことでこの物語がおわる。

「でも、おばあちゃん5さいでもケーキつくるのじょうず?」ねこはしんぱいそうにききました。

さて、おばあさんは5さいになっても上手にケーキを焼けるのでしょうか。きになる一文。5さいになったら98のときにできていたことはできなくなっちゃうのかな?そのまえに100さいの誕生日をむかえられるのか。5さいのねこには死という概念がないかもしれない。5さいになったおばあさんも死というものが迫ってきている感覚をわすれてしまっているかもしれない。物語が終わったあともどうなっていくのだろうと考えさせられる。そんな締めくくりかた。でもこれがまたなんだか幸せそうな終わり方だなと思う。

まとめ

「だってわたしは…」ここに入るのは年齢だけではないと思う。思い込みやじぶんの考えってなかなか変えられないけど、なにかきっかけがあれば見え方が変わってくる。でもきっかけってどうやってつかむもの?おばあさんの場合、ねこの存在が大きかった。ねこが5ほんしかろうそくを持って帰ってこれなかったから。じゃあ、じぶんたちにできることって?ひとの話をよく聞くとかまわりをよくみるとか、ひとと本音で話すとか?そんなことから始めてみないと、なにがきっかけになるかわからない。歳をとってもちょっとの発想が加われば世界も変わって見えるのかもしれない。

今回は絵本「だってだってのおばあさん」さく・え佐野洋子から歳をとるってどうゆうこと?をかんがえてみました。絵本のことが気になった方はいろいろな絵本をよんでみてください。きっと人生にプラスになる。

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