「100万回生きたねこ」の生きざま

人生観が変わる絵本

ねこは100万回もしんで、100万回もいきた。いろんな飼い主のもとでいろんな環境の中で生きてきて死んでいった。そんな猫の生きざまとはどんなものだったのだろう。

すこし考えてみたくなった。

こんにちは!mofuです。今回は昔から大好きだった「100万回生きたねこ 佐野洋子 作・絵」のねこの生きざまについて語りたいとおもいます。写真からもわかる通りこの本もう読みすぎてボロボロです笑

気になった方は購入して読んでみてください!

ねこと自分の人生を重ね合わせて

「ねこは100万回もしんで、100万回も生きたのです。」

さまざまなな飼い主のもとでさまざまな死にかた、生きかたをするねこ。

わたしもこのねこみたいな生き方だ。あるときは喫茶店の店員。あるときは一般事務。あるときはキッチンのスタッフ。あるときはBarテンダー。自分でお店をしていたこともあったっけな。どんな時もああでもない、こうでもないといいながら、そんな感情のじぶんがきらいだと思いながらなんとなくやってきた。

「ねこは王様なんかきらいでした。」

「ねこは海なんかきらいでした。」

その後も飼い主や環境のことがきらいなねこ。

そう思うのは必然的なのだろうな。決められた人生のなかでしか生きられなかったねこ。

でもわたしは違う。全部自分で決めてきた。誰のせいにもできない。そこにあるのは自己責任。

ねこのことが分かりそうでいまひとつわからない。生きるってなんだろう、死ぬって怖いよな。何かが終わって何かを始めるのって勇気がいるよな。ねこはなにをおもうのか。

100万人の人がねこをかわいがり、ねこが死ぬたび飼い主は悲しくて泣くけど、ねこは一回も泣かなかった。

それは「きらいでした」という一文につながっている気がする。ねこは生きるということを大事にしていないのでは?飼い主や環境もそうだけど、ねこはねこ自身が「きらい」だったのだろう。

ねこはあるときはだれのねこでもなかった。はじめて自分のねこになり、はじめてじぶんを大好きになった。

わたしははじめから誰かのためのじぶんではないし、かといってじぶんが大好きなわけではない。ねこと違うところはねこは誰かのねこだったころ、じぶんで人生を決めれなかったというところ。

本当の幸せって?

のらねこになったねこはだれよりもじぶんが大好きで「おれは100万回も、しんだんだぜ」と、ほかのねこたちに自慢します。

こんなにたくさん経験してきたんだよ、と自慢したくなるのはお年を召した方ならきっと普通のことなのだろう。ねこは101万回目の人生なのだから。でも自慢することは幸せにつながるのだろうか。話を聞いてくれる相手の利益ににもなる情報なら別だが、聞くほうも「すごいね」としか言えず、ただただ聞くのは苦痛なのでは?

「たった1ぴき、見むきもしない、白いうつくしいねこがいました。」

ねこは白いねこにも自慢するが「そう。」としか言ってもらえず、最初はすこし腹をたてます。じぶんのことが大好きなら、そんなじぶんに無関心な白いねこに対して腹をたてるのはふつうかもしれない。白いねこからしてみれば迷惑なはなしなのかもしれないが。

何を自慢しても「そう。」としか言ってくれない白いねこ。

ついに自慢をやめ、「そばにいてもいいかい。」とたずねるねこ。

「そう。」ではなくて「ええ。」と答える白いねこ。

自慢話をしてもどこかさみしいものがある。相手の反応は気になるし、一方通行で会話にはならない。ねこの「そばにいていいかい。」という言葉は幸せになるために、本当の意味でじぶんのことを好きになるために、必要なものかもしれない。

「ねこは、白いねこのそばに、いつまでもいました。」

そして、かわいい子ねこをたくさんうみ、ねこはもう

「おれは、100万回も・・・・・・。」とは、けっしていいませんでした。

たぶんこれが本当の幸せ。もう「○○なんかきらいでした」とか「泣きませんでした」とか否定的な言葉ではなく、「おれは、100万回も・・・・・・。とは、けっしていいませんでした」という前向きな言葉に変わっている。そして、ねこは、白いねこと子ねこのことが自分よりもすきなくらいでした。と、いろんな人生を経験してきて自分以外にも好きなものができた。幸せってそういうことなのかな。わたしにはまだわからないけど、ねこみたいに生きていたら気づくこともあるのだろうか。自分を、周りを愛そう。

死は悲しい

やっと幸せになれたんだねとおもったのに。物語はここでは終わらない。

子ねこたちは大きくなって、それぞれの人生を歩んでいく。

「あいつらもりっぱなのらねこになったなあ。」

ねこは満足そうに言う。ねこも立派なおとうさんをやり遂げたということ。物語の中でだんだん成長していくねこ。

ねこは、白いねこといっしょに、いつまでも生きていたいと思いました。

本当にそうであってほしい。でもきっと幸せってずっと続くようなものじゃないよな。幸せを見つけて、幸せにして、幸せを続けていくぞ!と思っても突然訪れるお別れがある。

「ある日、白いねこは、ねこのとなりで、しずかにうごかなくなっていました。」

死である。生きていくうえでどうしても避けられないもの。これは不可避。

「ねこは、はじめてなきました。夜になって、朝になって、また夜になって、朝になって、ねこは100万回もなきました。」

ねこは、はじめてないた。いままでの「死」では、飼い主はもれなくないていて、ねこはなかなかった。その対比がじわじわ効いてくる。

いままで見送られる側で、しかもきらいな人と別れるのは悲しくなく、次の人生はどんなのだろうと生まれ変わることにワクワクしてきたのだろうか。だから「死」ってそんなに悪いものじゃないと思っていたのかな。でも幸せを知ってしまった。幸せな時間には終わりが来ることをがっつり知ってしまった。「死」は悲しいものなんだ。これはつらいね。

だからきっと別れとしあわせが繰り返されて今なんだと。「死」という最大級の別れが来る前にもっと、別れに慣れたり、幸せをかみしめたりしていかないといけない。

でもきっといくら構えていたって、「死」に直面すると、ねこのようになくことしかできないんだろうな。

ねこの人生

「ねこは、白いねこのとなりで、しずかにうごかなくなりました。」

ねこは何を想って死んでいったのだろう。幸せだった時のことだけかもしれないし、100万回の人生のことも振り返っていたのかもしれない。どうだろう。自分が死ぬときはやっぱり楽しかった想いでこころとあたまをいっぱいにしたいかな。ああすればよかった、これは失敗だった、自分がいなくなる世界はどんなものだろう。そんなことは一切考えていたくない。

ねこは結局、はたからみれば幸せだ。100万回の人生で、死んだときには泣いてくれる人がいる。埋めてくれる人がいる。最終的には本当の幸せを知って大好きなねこのとなりで死ねるのだから。

「ねこはもう、けっして生きかえりませんでした。」

満足したんだね。ねこの「死」でおわるのに、よかったと思える。

この一文に救われる。不思議さ、おもしろさ。

まとめ

「100万回生きたねこ 佐野洋子 作・絵」は人や年齢によって見え方がかわる不思議な絵本。小さい時にも読んでたし大人になっても読める。むしろ大人になって読んだときのほうがおもしろく感じた。人生はうまれたときから「死」に向かって進んでいく。しあわせも失敗も、ああでもないも、こうでもないもひっくるめてよかったなとおもえる今をいきていたい。

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