ラチとらいおんのなかの心強さ

ライオン 価値観を考える絵本

こんにちは。mofuです。

今回はようやく佐野洋子さんの作品とは違う物を見ていこうと思う。「ラチとらいおん」マレーク・ベロニカぶん,え/とくながやすとも やく。この絵本も懐かしいけどすごく記憶に残っている作品。私もラチみたいな子だったんだよな。よわむしで泣いてばかりで(これは今も変わらない・・・)お母さんの後ろに隠れて行動するみたいな。そんな人も多分多いのではないかな。

なんか強くなるって心強い存在がいるかどうかが重要で。小さい時のお父さんお母さんみたいな存在。それがまず一歩めで、それをもう一歩もう一歩ってやっていくとあるときじぶんの強さにふと変わっていく。そうやってちょっとずつ強くなってきたのかな。んー。強くなれてるのかはさておき、絵本から学べることってたくさんあると思う。だからみんなにも絵本を読んでほしい。図書館でも本屋で立ち読みでも、んで欲しくなったら手にいれるでも。なんでもいい。手に取る選択肢として持っていてほしい。(一応アフィリエイト広告入れてます)



弱さって?

「ラチはせかいじゅうでいちばんよわむしでした。」

みんなほんとはよわむしだよ。大人になって分かったけど大人は弱さを隠すのが上手なんだ。起きれない朝もあるし、泣いちゃう夜もある。でも人前では弱さを見せない。それが大人なんだと。子どもの頃のように堂々とよわむしでいたいものだね。

じゃあ、この絵本でいうよわむしとはどういうものだろうか。なぜ「せかいじゅうで」と強調されているのだろうか。

「ラチは、ひこうしになりたいとおもっていました。でも、よわむしのひこうしなんているのでしょうか。」

よわむしにひこうしは似合わないらしい。

「ラチは、いぬをみるとにげだします。」

「くらいへやには、こわくてはいれません。」

「おまけに、こどもたちでさえこわいのです。だからみんなは、ラチをばかにして、あそんでくれません。」

「ラチは、なかまはずれにされて、いつもないていました。そして、いちにちじゅう、えほんをみてばかりいました。」

これらがこの絵本における弱さというものらしい。どこにでもとは言えないけどもこういうこいるよねっていう子ども像だね。だから絵本を見たときにラチに共感しやすい。逆に大人が見た時に子どもってこういうものだと弱さを分かったつもりでいてしまうのは少し危険かもなと思ってしまう。弱いから泣くのか。泣いたら弱いことになるのか。ラチの涙は悔しくて悲しくていろんな感情のある「泣いている」だと思うし、ラチをばかにして遊んでくれない子どもたちも弱さを持っている。弱さって目に見えるものだけじゃないから、大人でも子どもでも、ちゃんとひとりひとりと向き合っていたいよね。

「せかいじゅうで」と強調されていることについて。「せかいじゅうでいちばんのよわむし」の理由が上記のもので、さっきも言ったけども、これぐらいの弱虫だったらその辺にいるよ!となる。子どもの絵本ということを考えると、子どもの見ている「世界の中でいちばん」という解釈になるだろうか。子ども視点でいうと世界なんでまだまだせまい。その中ではいちばんよわむし。つまり周りの子に比べてよわむしだということを大袈裟に強調している。なんだかせかいじゅうでって書くとインパクトあるもんね。それに特別感もある。不名誉な世界一だけど主人公を語る時に使いやすいのかもしれない。

今の段階のラチでは夢には届かない。よわむしを小さいところから解決していかないと、とうてい大きな目標には届かない。でも一人で何個もの小さい問題を倒していくのはしんどいと思うんだ。強くなるまで何かにすがりたい。そう願うのは大人も子どもも同じ。

ラチはそんな存在を見つけます。

らいおんの強さ

「ところが、あるあさ、めをさましてみると、ベットのそばに、ちいさなあかいらいおんがいるではありませんか!」

これがらいおんとの出会い。ラチは”カッコいい”らいおんの絵が好きで「ぼくに、こんならいおんがいたら、なんにもこわくないんだけどな」といっているページがあります。そんならいおんではないけれども、ちいさいらいおんがラチのもとに現れる。ここから話が膨らんでいく。この出会いというのがのちに大きなチカラになっていく。絵本っぽくていいですね。

「でも、ラチはおおわらいしました。」

「こんなちっぽけならいおんじゃ、なんのやくにもたたないじゃないか」

「らいおんはおこりました。」

「きみ、よくみていたまえ!」

「らいおんはそういうと、かたてでいすをもちあげてみせました。」

よく、何かできない時に言い訳をするけれども、ここではよわむしだからできないという言い訳。でもらいおんは小さいということを言い訳にしない強さを持っている。

その後も、ラチに飛びかかってラチを床に倒したりする。それから、強くなりたいなら僕が強くしてやるよとラチにいう。そして毎朝たいそうをするし、やがて、片手でいすを持ち上げることもできるようになり、逆立ちもできるように。でもらいおんの持っている強さというのは体力的な強さだけではなかった。

心強さ。

二人がさんぽに出かけたとき、犬が怖くて道を通れない女の子がいる。ラチは逃げ出しそうになるが、らいおんが一緒にいることを思い出します。「こわくなんかないぞ。ぼくにはらいおんがついているんだから」そういって女の子の手を引いて犬のそばを通り抜ける。そんなことがあったり、

うちで絵を描こうと思った時にクレヨンだけ、電気のスイッチのての届かない、真っ暗な部屋にあります。「取りにいきたくないなあ」とラチは言いますが、らいおんが「じゃ、ぼくがついていってあげよう」と一緒にクレヨンをとりにいったり。

ラチにとってすごく心強い存在になってる。今までは犬を見ても逃げ出すし、くらい部屋へはこわくて入れかった。らいおんという心強い存在がいることで、できないことができるようになっていっている。世界一のよわむしから少しずつ成長していっている。らいおんの強さはラチのからだとこころを成長させるためにあったのだと言えるだろう。

そして、ラチはとうとう相撲でらいおんに勝った。そうなると次のステップ。こわいと思っている友達のところへ出かけていく。

本当の強さ

友達のところに来たけれどみんなしょんぼりしています。のっぽに買いたてのボールを取られてしまったようです。みんなはラチに「きみなんかきたって、なんにもならないよ、よわむしだから」と言います。ラチは「ぼくは、よわむしじゃないよ」と言い返しました。ラチはこわかった友達にしっかりと「よわむしじゃない」と言えた。もう完全に世界一のよわむしではなくなった。でもまだラチは、

「こわくなんかないぞ。ぼくには、らいおんがついているんだから!」

と、らいおんがいるから自分は強くいられると思っている。

ラチはのっぽを見つけました。のっぽは、みんなのっぽをこわがっていたのに、こわがらない子どもが出てきたとビックリし、「こいつは、ぼくよりつよいらしいぞ。にげたほうが良さそうだ!」とあわてて逃げ出しました。

結局、子どもの頃の強さって「こいつに勝てるかどうか」で見ているところがある。それは体格さなのか、気迫なのか、違いはあれど、よわむしって思わせないことが勝負になってくる。いや、実際みんなよわむしなんだけどさ。心で負けた時点でもう負けなんだよな。だから私たちは強がる。ラチはらいおんがついているから強くいれているといっているけれども、そばに誰かがいることほど強いことはないよ。そういう存在がいるから、人は強くなれる。本当の強さは心の安心感からくるのかもしれない。

らいおんがくれたもの

ラチはのっぽからボールを取り返し、みんな大喜びをしました。そしてらいおんにおれいを言おうと思いポケットに手をつっこみました。ところがポケットに中にあったのは

「りんごです!」

のっぽからボールを取り返す時のつよさは、らいおんがついているからだと思い込んでいたけど、実際にはらいおんがついていなくてもラチはつよかった。毎日体操とか小さいことから始めて、犬がいても逃げなくなったり、くらい部屋に入っていけたり、そして、のっぽからボールを奪い返すという、世界一のよわむしからだんだん強さを手にいれていく。その成長の過程にはらいおんがいた。心強い味方がいた。だからこそラチは強くなれた。

「ラチはもう、なにもこわがりません。だからラチはきっとひこうしになれるでしょう。」

らいおんはラチを強くした。そばにいてくれるという心強さが人を強くする。そして成長へとつながる。ただ単純に強さだけを教えてくれたのではなく、「ひこうしになれるでしょう」という希望もらいおんがくれたもののひとつかもしれない。

まとめ

弱さは誰もが持っている。強くなるようにに変えていくのも大事なんだけど、一人では難しい。その時には心強い味方が必要。また弱さを自覚することも大事だ。弱さは誰もが持っている。それに気づけないと物語が始まらない。自分の物語をどう進めていくかは、自分の弱さにきづくところからスタートするのだろう。

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